努力って何か?考えたことはありますかと言う話
どーも!シオです!
昨日ブログの更新ができなかったのが個人的にとにかく悔しい。
今の毎日投稿は内容はしっかり考えて書いているが、まず毎日やること。
脳死でいいから毎日意地でも更新してやる。と思って続けている。
なので、自分の中でけじめをつけるべく昨日の分ということで本日夕方も更新することにした。
ちゃんと書く内容は考えているのだ笑
今日は皆さんがよく聴くであろう単語「努力」に関して考えていこうと思う。
あくまで僕個人の考えなのでそれを了承してもらいたい。
「努力」多くの人の認識では頑張ることだ。
それは誰もが知っていると思う。小学校や中学校でも頻出する言葉だ。
いつも僕が思うことは頑張るという判断は主観的なものでしかないということだ。
それにもかかわらず、「努力してるね」とか「頑張っているね」と他人から評価されるシーンが存在するのはチグハグだなぁと思うのだ。
「努力」は主観的なものなので「努力」で出来事や個人を評価することは不可能なはず、なのに人は「努力」を評価しているのだ。
他人から評価される「努力」という言葉は2種類出所があると僕は考えている。
一つ目は「結果」だ。
「結果」を出している人のことはみんな努力したと思っている。スポーツ選手なんかが分かりやすいだろう。オリンピックの時くらいしかその競技を見ない人達が日本人が優勝したのを観て努力のエピソードも放映されてる努力して結果を出すまでの物語を観て努力したんだなぁと感動する。
本人と話したことも実際の練習を見たりしたことがないのにそう思うのは結構不思議だ。
誤解をされないように付け足すとスポーツ選手を批判するつもりは毛頭ない。かなりの要因や要素を兼ね揃えないと間違いなく世界一は取れないと思う。
しかしそれを他人が評価することは出来ないはずなのに評価されている。
僕らが理解できるのは「結果」だけなのに。
二つ目は「時間」だ。
長時間何かに取り組むことはすごいことだ。
それは間違いない。しかし、長時間取り組んだからと言ってその人が頑張ったかどうかは他人には判断出来ないんじゃないかな。
現に今は大分薄れてきているが「ゲームを1万時間プレイした」という話を聴いて「努力」と感じられる人はどのくらいいるのだろうか?
そうなると1万時間プレイすることより分かりやすくゲーム実況で人気になったとか、プロゲーマーになった。と言った一つ目の「結果」に通じないと結局のところ「努力」と見なしてもらえない気がする。
他人から評価される「努力」という言葉を僕なりに考えみた。
もし他人から評価をしてもらうことが目的であるなら早く結果が出ることをやった方が良いのだ。
結論としてはすごく当たり前のことになってしまった笑
ただ今回大きく伝えたいのは自分の思う「努力」と他人の思う「努力」は違うってことだ。
だからこそ健全な心持ちでいるためには「自分の努力」は自分で評価しよう。
ただ、方法に固執したり意固地になったりすると空回りにつながってしまうからそこは要注意だ。
以上、努力って何か?考えたことはありますかと言う話
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